神学討論掲示板
「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」という世界観の神学的妥当性を考える掲示板です。
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世の金持ちや 権力者ではなく 神に必要とされる人になりなさい
投稿者:
神の子
投稿日:2009年 5月31日(日)10時47分34秒
返信・引用
よく聞きなさい。富んでいる人が天国に入るのは、難しいものだ。富んでいる人が神の国に入
るよりは、らくだが針の穴を通る方が、まだ優しいのである。
あなたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人が民を支配し、偉い
人が権力を振るっている。あなたの中で偉くなりたい人は、皆に仕える人になり、頭になりた
い人は、すべての人の僕になりなさい。人の子も仕えられるためではなく、仕えるため自分の
命を献げに来たのである。だれでも自分を高くする人は低くされ、自分を低くする人は高くさ
れるのである。
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、一方と親しん
で他方をうとんじるからである。あなたは、神と富の両方に仕えることはできない。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、あなたに必要なこれらのものは、すべて添
えて与えられるのだ。だから、明日のことを思いわずらうな、思いわずらう必要は無いのである。
2007年3月23日のブログ記事の再掲
投稿者:
山谷
投稿日:2008年 2月13日(水)20時01分33秒
返信・引用
<以下再掲>
最近ソラグラティア氏の匿名ブログを読みながら、つらつら考えるのは、これはどうも矢田喬大氏が書いているのではないか、ということである。新宿駅西口喫茶店での面談とか「高柳山谷会談」の際とかに触れた矢田喬大氏の口調が、なんとなくソラグラティア氏に似ている気がする。
そのソラグラティア氏であるが、小生が「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義を指向する者である」という点が、全然気に入らないらしい。小生を異端者だと断定して、いろいろ論難している。
小生としては、「再建主義大論争」の全記録をお読み下されば、理性的読者なら、同意納得は出来なくとも、一応理解は出来るだろう、ぐらいに楽観的であった。ところが、このソラグラティア氏には、ひとつも理解出来なかったらしい。「再建主義大論争」の全部に目を通したけれども、得た結論は、「山谷は曖昧な議論に逃げている」と言うのである。
これにはカチンときた。
「北朝鮮の密命を受けたクリスチャン新聞編集顧問の根田祥一氏が救世軍少佐たる山谷を洗脳してブログを書かせ、クリスチャントゥデイ潰しを図った」という黒幕陰謀論ぐらいなら、この小生とてまだ我慢が出来ようというものである。
しかし、ログ数1200に達したかの「再建主義大論争」を指して、「山谷は曖昧な議論に逃げている」とソラグラティア氏は言い放った。小生は余程ソラグラティア氏に対して「内容証明郵便」を送りつけてやろうと思ったぐらいである。いずれ裁判になれば、第一回口頭弁論で黒幕陰謀論を指弾しようと思っているけれども、「山谷は曖昧な議論に逃げている」という発言も、きっちり論じさせていただくことにしようか? その際は、ソラグラティア氏が誰であるか特定した上で、「再建主義大論争」の全ログを証拠資料として提出し、「山谷は曖昧な議論に逃げている」という発言の是非につき、御白州裁きをつけてもらおうか?
・・・いやいや、これは、あまりに、大人げない。
そもそも「宗教的批評の自由は、信教の自由の一部を構成する重要な要素である」との催三更氏の持論を全面的に支持する小生としては、かような事柄で御白州裁きを仰ぐわけにはいかない。
それにしても、ログ数1200の議論の中から小生の神学的立場を一瞥せよという課題を、大学をきちんと卒業できるかどうかもわからない若者に要求するのは、さすがに酷と思われるから、以下に出来得る限りかいつまんで、小生の神学的立場を説明することとしよう。
これをお読み頂いて、ソラグラティア氏に同意納得せよとは求めないけれども、一応理解せよとは申し上げたいものだ。それでも「わからん」とおっしゃるのであれば、小生は、あっさり匙を投げる。その場合、悪いのは小生の説明の仕方ではなく、若者たちに「理性」を捨てて「愛」によってのみ生きるようにと繰り返し教え込んでいるダビデ張在亨氏が悪いのである。
---------------------------------------------------------------
1.聖書根本主義について
小生は、聖書根本主義について、次のように考えます。
聖書根本主義とは、「実在」を規定する「根源」であるところの「主イエスキリスト」が、聖書において有機的かつ十全的に証言されている、と見るような、世界観です。
この場合、「実在」とは、主イエスキリストと、キリストのからだと、キリストが創造し保持し統治したもう世界と、これら三つを指しています。
2.宗教文化多元主義について
小生は、宗教文化多元主義について、次のように考えます。
宗教文化多元主義とは、「歴史」において多様に展開する「諸国家」「諸政府」「諸民族」「諸言語」「諸文化」「諸宗教」が、堕罪した人類に「秩序ある安寧な生活」を保障するために設置された「一般恩恵」に他ならない、と見るような、世界観です。
この場合、「一般恩恵」とは、主イエスキリストが創造した「諸権力」が、キリストの十字架と復活によって打破され、キリストに従属させられ、キリストの王権的世界統治の代理人として使役され、キリストの再臨によって解消されるところの、「人間を救いはしないが、人間に秩序ある安寧な生活を保障する恩恵」を指しています。
さらにまた、この場合の「歴史」とは、人類がバベル崩壊後に「諸権力」による分散管理下に置かれてから、キリスト高挙による「諸権力」の打破を経て、キリスト再臨による「諸権力」の解消にまで至る「救済史」を指しており、かつ、救済史は、キリスト初臨とキリスト再臨に挟まれた「中間の時」において、「終末論」的段階を迎えている、と捉えます。
3.聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義について
小生は、聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義について、次のように考えます。
キリスト初臨とキリスト再臨に挟まれた「中間の時」である「現在」においては、堕罪した人類に対し、福音宣教を通して、「救いの召命」が提供されており、信仰によって応答した者は、救いの恩恵に参与して、キリストのからだに加えられるけれども、応答しない者は、「人間を救いはしないが、人間に秩序ある安寧な生活を保障する恩恵」であるところの「一般恩恵」によって、すなわち「諸国家」「諸政府」「諸民族」「諸言語」「諸文化」「諸宗教」の下にあって、適切に保持され、統治されます。そうして、保持し統治したもうのは、王の王、主の主イエスキリストに他なりません。
4.聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義の神学的典拠について
小生は、聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義について、以下に神学的典拠を求めます。
(1)聖書啓示
(2)ゲルハルト・キッテルの『新約聖書神学事典』
(3)アレクサンドリアのクレメンス
(4)カルヴァンの一般恩恵論
(5)カール・バルトの『義認と法』
(6)オスカー・クルマンの『キリストと時』
(7)ヘンドリクス・ベルコフの『キリストと諸権力』
(8)ファン・ルーラーのセオクラシー論
<以上再掲>
http://theologicalreview.blogspot.com/
最終的な論点は、、、、
投稿者:
山谷
投稿日:2008年 2月12日(火)10時48分46秒
返信・引用
「われわれが、第一世紀の原始教団の世界観に真に立脚するとき、多様な国家・民族・言語・文化・宗教の存在は、『福音の召命』を保障するために「中間の時」において立てられた諸制度として、尊重されるべきであり、われわれは、キリスト者の良心に違反しない限りにおいて、それら諸制度に主体的に従属するべきである。そうした従属は、第一に、主イエスキリストのためであり、第二に、キリストに結ばれた自分の良心のためである」
上記命題が、真か、偽か、という点に、収束していくはずであります。
http://theologicalreview.blogspot.com/
さて、、、、
投稿者:
山谷
投稿日:2008年 2月12日(火)10時28分32秒
返信・引用
小生は、宗教多元主義と宗教文化多元主義とを、交換可能な概念として、使っています。
両者はいずれも、「プルーラリズム」の訳語です。
第一世紀の原始教団は、主イエスキリストの王権的頭首権的世界支配のエージェント(代理人)であるところの主権・支配・位・権威といった「この世の諸霊」が、国家・民族・言語・文化・宗教の背後で働いている、と見ていましたから、このような世界観を適切に汲み取って表現するのだとすれば、「宗教文化多元主義」という用語の方が、より適切であろう、と思っています。
しかし、「プルーラリズム」の訳語は、いつも、つねに、たえず、かならず、ひとつの例外もなく「宗教多元主義」だけでなければならない、と主張される方がいるのであれば、その適切な論拠を示すよう、小生は求めます。
http://theologicalreview.blogspot.com/
それでは、議論を始める準備として、、、、、
投稿者:
山谷
投稿日:2008年 2月12日(火)10時23分17秒
返信・引用
小原先生の次の小論に、目を通しておいてください。
「宗教多元主義モデルに対する批判的考察――「排他主義」と「包括主義」の再考」『基督教研究』第69巻第2号
結論近くで、小原先生は「包括主義」と「排他主義」を対比させつつ、それぞれの有する意義について、述べておられます。
この両者を統合させる手立てのひとつとして、小原先生は、「西洋的な価値が最終的に多様な相関性を統べる、諸価値の〈原器〉として想定されているという意味での『西欧優越的置換主義』」を挙げ(それは、第二ヴァチカン公会議後の諸回勅、とりわけて、『パーチェム・イン・テリス』によく現れていると思われますが)その上で、「西欧優越的置換主義」が持つ「柔和なキリスト教帝国主義」的な本質を、小原先生は批判しておられます。
興味深いのは、「西欧優越的置換主義」が持つ「柔和な傲慢さ」が歴史の展開の中で「露骨な傲慢さ」(たとえば、あのナチズム)に変貌したときに、それを打ち砕く対抗原理として働いたのは、実際のところ、ものわかりのよいリベラリズムだったのではなく、バルトの告白教会の精神において現れた、あの頑固で扱いにくい「排他主義」つまりは、絶対主義、さらには、原理主義、ひいては、根本主義、そうして、ファンダメンタリズムであった、という点に、小原先生は、着目しておられるところです。
果たして、「包括主義」と「排他主義」という正と反が「西欧優越的置換主義」という回答を回避しつつ、止揚され得る道は、あるのでしょうか?
小生が思うに、「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」こそ、その可能な答えであろう、と考えます。
なんとなれば、真の聖書根本主義とは、第一世紀における原始教団(ゲマインデ)の世界観にどこまでも固く立脚するものなのであって、それはつまり、<西欧以前の世界観>に立つ、ということになるからです。
http://theologicalreview.blogspot.com/
高柳氏が、、、、
投稿者:
山谷
投稿日:2008年 1月24日(木)20時45分9秒
返信・引用
ご自分のブログ「ソラグラティア」で、「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」を奉じる山谷は異端だ、と明言するに至りました。
そうしますと、高柳氏は、「聖書根本主義に基づく宗教文化一元主義」を主張なさるのだろう、と想像します。
しかし、現経綸における「宗教文化多元主義的状況」という現実を、一元主義によって、どう説明なさるのでしょう?
一元主義で説明しようとする場合、「大きな一元主義」と「戦闘的な一元主義」と「気の長い一元主義」、この三つしか、現経綸においては考え得ないのではないか、と思います。
「大きな一元主義」とは、ヒンドゥー教も仏教もイスラム教も、実は、キリスト教なのだ、という一元主義。
「戦闘的な一元主義」とは、ヒントゥ―教も仏教もイスラム教も、キリスト教の敵であり、それらを打倒し征服して、一元的世界を建設しなければならない、という血の気の多い一元主義。
「気の長い一元主義」とは、チルトンに代表される考え方で、40万年という気の遠くなる超年月の地道な宣教の結果、地上からヒンドゥー教も仏教もイスラム教も姿を消して、一元的世界が到来する、というもの。
さて、上記のいずれとも異なる「第四の一元主義」があるなら、ぜひ高柳氏から伺ってみたいものだ。
http://theologicalreview.blogspot.com/
暇人さまへ
投稿者:
山谷
投稿日:2007年12月28日(金)17時45分20秒
返信・引用
ご紹介くださった「東京キリストの教会」のステートメントについて、次のように分析してみました。
論旨は大略、こういうことでしょう。
(1)真理には権威がある。
(2)権威には服従すべき。
(3)服従する者は自由になる。
以上について、小生は異論はありません。
しかし、もし、こういうことであるのなら、小生は、大いに異論があります。すなわち:
(1)聖書のみが真理である。
(2)××教団の××指導者だけが真理を正しく伝達する。
(3)××指導者の権威に従うこと<のみ>が真理への服従である。
もし、上記のように主張する者がいれば、小生は、聖パウロに倣い、「アナテマ」を言うでありましょう。
それでは、解題いたします。
まず、「真理には権威がある」「権威には服従すべき」「服従する者は自由になる」という論点について。
たとえば、「1+1=2」というのは、真理です。(もっとも、高等数学では、そうならない解も、あるということですが)
もし「真理には権威がない」ということであれば、小学一年生の教室で、子ども達が「1+1=任意の整数」と答案を書いても、マルになります。その子ども達が、そのまま大きくなれば、およそ、社会の基本的なシステムを成しているもの(スーパーのレジから、スーパーコンピューターに至るまで)大混乱に陥るでしょう。その結果、有人ロケットを打ち上げたら、いつも必ず行方不明になって、誰一人帰って来れない、というような事態になります。
次に、「聖書のみが真理である」かどうか、という点について。
これは、言う迄もなく、誤りです。
正しくは、「主イエスキリストのみが真理である」と宣言するのでなければなりません。
そうして、聖書は、このお方、主イエスキリストについて証言するものです。
さて、永遠にして唯一の真理である主イエスキリストは、その力と権威をもって、万物を創造されました。万物は、主イエスキリストの「王権的頭首権的統治」の下に置かれています。かしらである主イエスキリストから、万物の中へ、キリストの「権威」が分岐して流れ込んでいます。聖書はこれを、位、主権、支配、権威と称します。
キリストの「権威」の流入は、二つに大別されます。
ひとつは、「国家の絶対主権」です。これは、諸国家の「権力」の源泉をなすもの。
もうひとつは、「社会の分散主権」です。これは、諸言語、諸民族、諸文化、諸宗教の「権力」の源泉をなすもの。
上記は、まとめて「領域主権」ということができますし、「一般恩恵」ということもできますし、広義の「自然法」ということもできます。
さて、たとえば、小生は、いま、現代日本語を使って、この掲示板に書き込んでいますが、小生は、日本語の文法と語彙という「権威」のもとで、その権威に服従しつつ、文章を書いているわけです。
小生が、この「権威」を無視して、たとえば、「あばされあにまた、ぱらびれまにかた、さぢをきすれびし」と表現したとしても、それは、万人に対して、何ら意味をなしません。しかし、「権威に服従する者は自由になる」と書けば、その意は、現代日本語話者に必ず通じて、コミュニケーションが成立します。
それでは、このような「権威」の源泉は、いったい、どこにあるのか?
現代日本語の文法や語彙は、「社会の分散主権」のカテゴリーに属するものであり、その「権威」の源泉は、万物の創造者であり保持者であり統治者である主イエスキリストにあるのです。
それでは、次の問題。「××教団の××指導者だけが真理を正しく伝達する」というのは、真であるか、偽であるか。
言うまでもなく、偽です。
なぜなら、××指導者が説教の際に「てにをは」を間違えたら、彼の誤りを指摘することが出来るのは聖書ではなく、故金田一京助博士であり、一般の現代日本語話者であり、そこにいる、おじさん、おばさんであり、小学生にすら、できることであるからです。
さらにまた、××指導者が原付自転車で交差点の二段階右折を無視したら、彼の誤りを指摘することができるのは聖書ではなく、交通機動隊員であり戸越警察署員であり四谷警察署員であるからです。
そうしますと、最後の問題。「××指導者の権威に従うこと<のみ>が真理への服従である」というのは、真か偽か?
明らかに偽です。
永遠の真理である主イエスキリストは、絶対的な真理でありますが、その真理の権威は、「国家の絶対主権」と「社会の分散主権」とに分岐して、この「創造の世界」を保持し統治して、滅びへの退落から守っております。
××指導者は、この「世界の住人」の一員である以上、当然のことながら、(1)国民として国家の絶対主権に従属する主体であり、(2)市民として社会の分散主権に従属する主体であり、(3)教会員として歴史的教会の権威に従属する主体でなければなりません。
それゆえ、××指導者が、税を納めず、交通法規を遵守せず、囲碁将棋のルールを勝手に変え、ウェストミンスター信条を奉じると看板に書いておきながら洗礼も聖餐も廃棄しているのであれば、彼は、必ずや制裁を受けなければなりません。
なぜなら、××指導者は、真理をないがしろにし、権威を侮るものにほかならないからです。
しかし、それでもなお悔い改めず、「聖書のみが真理である」「わたしだけが真理を正しく伝達する」「わたしの権威に従うこと<のみ>が真理への服従である」と主張し続けられるのであれば、どうか「この世界」から出て行って、火星か木星にでも行って、おやりなさい。
しかし、その際、条件がある。どうか、聖書の紙だけを用いて、自分が乗り込むロケットを作り上げて頂きたいものだ!
http://theologicalreview.blogspot.com/
これは
投稿者:
暇人
投稿日:2007年12月28日(金)07時47分19秒
返信・引用
カルト化したと危惧される教会の「聖書根本主義」なのであるが、
この立場について山谷氏の立場からいかがであろうか
東京キリストの教会の「キリストの真理」
投稿者:
暇人
投稿日:2007年12月28日(金)07時44分27秒
返信・引用
永遠に確かな真理
今や相対主義や主観主義が隆盛を極めています。広くみられる考え方としては、たとえば、絶対的な真理などと
いうものはないとか、すべてが真理だとか、すべてが誤りだとか言うものです。このように誰でもその時々に自分に
「真理」と思われるものを受け入れようとすればそれでいいかのようです。
こういう考え方は、ある人々にはとても気楽に思われるかもしれませんが、多くの人々にとっては絶望に陥る原
因なのです。出口が見つからず迷ったり、苦痛からのがれる方法が分からずに死と直面したり、赦される望みを知
らず最後の審判の確実なことだけを恐れ続けるなどは、苦しみ以外の何物でもないではありませんか。そしてその
苦痛がわずかばかり和らげられる時と言えば、自分の考えは単なる思いこみであって相対的なものにすぎないと
結論づけるときだけなのです。
ここにこそ私たちに真理の源として与えられている聖書の計り知れない恵みの意味があります。それはいわば流
砂の只中に堅く立つ巌のようなものです。また、希望と信頼と救いの確信の堅固な礎なのです。
その真理は絶対であり、永遠に残り、また変わることがありません。イエスが「聖書の言は、すたることがありえな
い」(ヨハネ10:35)と言われたとき、彼は私たちがいつも神の言に信頼することができると言ったのです。神の言は
決して誤ることがなく、その真理は永遠に確かです。イエスの言われるように、「天地は滅びるであろう。しかし、私
の言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)。「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」とペテロ
第一の手紙1:25 は言っています(イザヤ40:8 の引用)。たとえ宇宙の他の言葉全部が誤りに陥ったとしても、神の
言は真理として残ります(ローマ3:4)。 その真理は客観的です。それは誰に対しても同じように開かれています。
キリストの真理
10
それは特別な洞察によってしか得られない悟りのようなものではありません。神のメッセージは自分の内側の感覚
や、軽率な意見に頼らなくても知ることができるのです。
その真理には権威があります。聖書は神がくださった絶対的で客観的な真理ですから、私たちはそれに心や意
志や命のすべてを差し出さなければなりません。このことだけがわたしたちの信仰の堅いきまりであるべきです。
つまり、私たちの信じ教える教義は神の書かれた言から引き出されなければならないと同時に、それだけがわたし
たちの実践の確かな基準とされなければならないということです。ですから、正しいか間違っているかは聖書に基
づくべきです。
ある人は聖書に従うということを、束縛されるというふうに重荷に考えるかも知れません。しかし、真理は人を奴
隷とするものではなく、解放するものなのです。聖書の権威に従うすべての人への約束はこうです:「またあなたが
たは真理を知るであろう。そして真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)。
諸宗教との協力
投稿者:
山谷
投稿日:2007年12月17日(月)10時47分4秒
返信・引用
前ログの定義に照らせば、キリストの教会と諸宗教との関係、さらに、キリストの教会とダビデアンとの関係は、次のように考えることになります。
------------------------------------------------------------------------------------
「人類を保護する」というのが、現経綸における諸宗教の「世界管理者」(オイクメネー)としての任務であるとすれば、キリストの教会は、この任務を実行する諸々の活動において、諸宗教と協力することができる。
すなわち、核兵器の廃絶、貧困問題の解決、社会正義の実現、公正な政治の確立、エイズ問題の解決、戦争への反対、等々において、キリストの教会は諸宗教と共に行動することができるし、また、行動する。
しかし、ある宗教が、「自分たちの指導者であるだれそれは来臨のキリストである」と信奉する場合には、キリストの教会は、その宗教と絶対に協力することができない。
なぜなら、その宗教は「世界管理者」(オイクメネー)としての分限から逸脱しているからである。すなわち、本来的に「キリストのしもべ」であるものが、自らを「来臨のキリスト」と称することは、絶対に許されないことだからである。
http://theologicalreview.blogspot.com/
包括主義との違い
投稿者:
山谷
投稿日:2007年12月17日(月)10時45分37秒
返信・引用
心から歓迎いたします。レス遅れてすみません。
ご提示の問いにつき、小生は次のように考えます。
------------------------------------------------------------------------------------
「救いはイエスキリストを通してのみ」というのが排他主義である。
「救いはイエスキリストを通してのみ。しかして、イエスキリストの救いは他宗教を通しても分配される」というのが包括主義である。
「救いはイエスキリストを通してのみ。しかして、人類がイエスキリストの救いに入る日まで、人類が滅亡しないよう適切に管理する<後見人>が、他宗教である」というのが、「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」である。つまり、諸宗教は「救いの門」ではないが、しかし、救いへと招かれている人類の生存を保障する「世界管理者」(オイクメネー)である。それゆえ、救いへの招きが完了する日、すなわち、主イエスキリストの再臨の日までは、諸言語・諸民族・諸文化・諸政府が解消されることが絶対にあり得ないように、諸宗教(ユダヤ教を含む)が解消されることは、絶対にあり得ない。人類を保護する「世界管理者」という意味で、諸宗教は諸国家と共に「キリストのしもべ」である。
http://theologicalreview.blogspot.com/
包括主義との差異
投稿者:
暇人
投稿日:2007年12月14日(金)08時07分43秒
返信・引用
はじめまして
よろしく
山谷氏は包括主義をどのように位置づけられておられるのですか?
以上は、新着順1番目から100番目までの記事です。
これ以下の記事はありません。
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