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永遠に確かな真理
今や相対主義や主観主義が隆盛を極めています。広くみられる考え方としては、たとえば、絶対的な真理などと
いうものはないとか、すべてが真理だとか、すべてが誤りだとか言うものです。このように誰でもその時々に自分に
「真理」と思われるものを受け入れようとすればそれでいいかのようです。
こういう考え方は、ある人々にはとても気楽に思われるかもしれませんが、多くの人々にとっては絶望に陥る原
因なのです。出口が見つからず迷ったり、苦痛からのがれる方法が分からずに死と直面したり、赦される望みを知
らず最後の審判の確実なことだけを恐れ続けるなどは、苦しみ以外の何物でもないではありませんか。そしてその
苦痛がわずかばかり和らげられる時と言えば、自分の考えは単なる思いこみであって相対的なものにすぎないと
結論づけるときだけなのです。
ここにこそ私たちに真理の源として与えられている聖書の計り知れない恵みの意味があります。それはいわば流
砂の只中に堅く立つ巌のようなものです。また、希望と信頼と救いの確信の堅固な礎なのです。
その真理は絶対であり、永遠に残り、また変わることがありません。イエスが「聖書の言は、すたることがありえな
い」(ヨハネ10:35)と言われたとき、彼は私たちがいつも神の言に信頼することができると言ったのです。神の言は
決して誤ることがなく、その真理は永遠に確かです。イエスの言われるように、「天地は滅びるであろう。しかし、私
の言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)。「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」とペテロ
第一の手紙1:25 は言っています(イザヤ40:8 の引用)。たとえ宇宙の他の言葉全部が誤りに陥ったとしても、神の
言は真理として残ります(ローマ3:4)。 その真理は客観的です。それは誰に対しても同じように開かれています。
キリストの真理
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それは特別な洞察によってしか得られない悟りのようなものではありません。神のメッセージは自分の内側の感覚
や、軽率な意見に頼らなくても知ることができるのです。
その真理には権威があります。聖書は神がくださった絶対的で客観的な真理ですから、私たちはそれに心や意
志や命のすべてを差し出さなければなりません。このことだけがわたしたちの信仰の堅いきまりであるべきです。
つまり、私たちの信じ教える教義は神の書かれた言から引き出されなければならないと同時に、それだけがわたし
たちの実践の確かな基準とされなければならないということです。ですから、正しいか間違っているかは聖書に基
づくべきです。
ある人は聖書に従うということを、束縛されるというふうに重荷に考えるかも知れません。しかし、真理は人を奴
隷とするものではなく、解放するものなのです。聖書の権威に従うすべての人への約束はこうです:「またあなたが
たは真理を知るであろう。そして真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)。
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