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ご紹介くださった「東京キリストの教会」のステートメントについて、次のように分析してみました。
論旨は大略、こういうことでしょう。
(1)真理には権威がある。
(2)権威には服従すべき。
(3)服従する者は自由になる。
以上について、小生は異論はありません。
しかし、もし、こういうことであるのなら、小生は、大いに異論があります。すなわち:
(1)聖書のみが真理である。
(2)××教団の××指導者だけが真理を正しく伝達する。
(3)××指導者の権威に従うこと<のみ>が真理への服従である。
もし、上記のように主張する者がいれば、小生は、聖パウロに倣い、「アナテマ」を言うでありましょう。
それでは、解題いたします。
まず、「真理には権威がある」「権威には服従すべき」「服従する者は自由になる」という論点について。
たとえば、「1+1=2」というのは、真理です。(もっとも、高等数学では、そうならない解も、あるということですが)
もし「真理には権威がない」ということであれば、小学一年生の教室で、子ども達が「1+1=任意の整数」と答案を書いても、マルになります。その子ども達が、そのまま大きくなれば、およそ、社会の基本的なシステムを成しているもの(スーパーのレジから、スーパーコンピューターに至るまで)大混乱に陥るでしょう。その結果、有人ロケットを打ち上げたら、いつも必ず行方不明になって、誰一人帰って来れない、というような事態になります。
次に、「聖書のみが真理である」かどうか、という点について。
これは、言う迄もなく、誤りです。
正しくは、「主イエスキリストのみが真理である」と宣言するのでなければなりません。
そうして、聖書は、このお方、主イエスキリストについて証言するものです。
さて、永遠にして唯一の真理である主イエスキリストは、その力と権威をもって、万物を創造されました。万物は、主イエスキリストの「王権的頭首権的統治」の下に置かれています。かしらである主イエスキリストから、万物の中へ、キリストの「権威」が分岐して流れ込んでいます。聖書はこれを、位、主権、支配、権威と称します。
キリストの「権威」の流入は、二つに大別されます。
ひとつは、「国家の絶対主権」です。これは、諸国家の「権力」の源泉をなすもの。
もうひとつは、「社会の分散主権」です。これは、諸言語、諸民族、諸文化、諸宗教の「権力」の源泉をなすもの。
上記は、まとめて「領域主権」ということができますし、「一般恩恵」ということもできますし、広義の「自然法」ということもできます。
さて、たとえば、小生は、いま、現代日本語を使って、この掲示板に書き込んでいますが、小生は、日本語の文法と語彙という「権威」のもとで、その権威に服従しつつ、文章を書いているわけです。
小生が、この「権威」を無視して、たとえば、「あばされあにまた、ぱらびれまにかた、さぢをきすれびし」と表現したとしても、それは、万人に対して、何ら意味をなしません。しかし、「権威に服従する者は自由になる」と書けば、その意は、現代日本語話者に必ず通じて、コミュニケーションが成立します。
それでは、このような「権威」の源泉は、いったい、どこにあるのか?
現代日本語の文法や語彙は、「社会の分散主権」のカテゴリーに属するものであり、その「権威」の源泉は、万物の創造者であり保持者であり統治者である主イエスキリストにあるのです。
それでは、次の問題。「××教団の××指導者だけが真理を正しく伝達する」というのは、真であるか、偽であるか。
言うまでもなく、偽です。
なぜなら、××指導者が説教の際に「てにをは」を間違えたら、彼の誤りを指摘することが出来るのは聖書ではなく、故金田一京助博士であり、一般の現代日本語話者であり、そこにいる、おじさん、おばさんであり、小学生にすら、できることであるからです。
さらにまた、××指導者が原付自転車で交差点の二段階右折を無視したら、彼の誤りを指摘することができるのは聖書ではなく、交通機動隊員であり戸越警察署員であり四谷警察署員であるからです。
そうしますと、最後の問題。「××指導者の権威に従うこと<のみ>が真理への服従である」というのは、真か偽か?
明らかに偽です。
永遠の真理である主イエスキリストは、絶対的な真理でありますが、その真理の権威は、「国家の絶対主権」と「社会の分散主権」とに分岐して、この「創造の世界」を保持し統治して、滅びへの退落から守っております。
××指導者は、この「世界の住人」の一員である以上、当然のことながら、(1)国民として国家の絶対主権に従属する主体であり、(2)市民として社会の分散主権に従属する主体であり、(3)教会員として歴史的教会の権威に従属する主体でなければなりません。
それゆえ、××指導者が、税を納めず、交通法規を遵守せず、囲碁将棋のルールを勝手に変え、ウェストミンスター信条を奉じると看板に書いておきながら洗礼も聖餐も廃棄しているのであれば、彼は、必ずや制裁を受けなければなりません。
なぜなら、××指導者は、真理をないがしろにし、権威を侮るものにほかならないからです。
しかし、それでもなお悔い改めず、「聖書のみが真理である」「わたしだけが真理を正しく伝達する」「わたしの権威に従うこと<のみ>が真理への服従である」と主張し続けられるのであれば、どうか「この世界」から出て行って、火星か木星にでも行って、おやりなさい。
しかし、その際、条件がある。どうか、聖書の紙だけを用いて、自分が乗り込むロケットを作り上げて頂きたいものだ!
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